1962年9月に完成した鈴鹿サーキットが50回目の誕生日を迎えた。2輪、4輪合わせて日本のモータースポーツは鈴鹿サーキットとともに成長したと言っても過言ではない。
ボクも発起人の末席を汚す“日本のモータースポーツを創ってきた人達の集い”も、育ててもらった鈴鹿サーキットのお祝いをするために50周年アニバーサリーデーの期間中に祝賀会を開いたので、トゥインゴGTで駆けつけた。
残暑厳しい9月。パドックにたたずむトゥインゴGT
当日集まったのはドライバー、ライダー、コンストラクター、メディア、オフィシャルなど総勢300名余り。既に現役を退かれた方も現役を貫いている方も、懐かしい顔がひとつの屋根の下に集まった。ホントにしばらくぶりに会った人も、昔の話になると笑顔、笑顔、笑顔。
※日本のモータースポーツを創ってきた人達の集い
50年という年月は決して短くはない
「こんなことがあった」、「あんなこともあった」。どの顔にも、頭の中では次から次へととんでもない量の思いが巡っているの見てとれた。言葉にできるのは、もどかしいほどにそのほんの一部でしかないのだけれど。穏やかな空気があふれていた。
ボクは1979年に日本を脱出してしまったので欠席日数は多いものの、いつも意識は日本のモータースポーツとともにあった。30年余りアメリカで経験した合理的な思想は、今ユイレーシングスクールに息づいているはずだ。
1963年第1回日本GPに参加した大久保力さんが開会を宣言
日本のモータースポーツも技術力では世界に伍するまで発展を続けて来たものの、その道は決して平坦ではなかった。タイヤが2本であれ4本であれ、人を乗せて走る機械をより速く走らせることに目を輝かせた人達が悩みながら日本のレース界と一緒に大きくなった。
祝賀会の記念品その1
※50周年を記念して作られた本の中には自分のあの頃の情景がまざまざと
祝賀会の記念品その2
※当日のクレデンシャルは向こう1年間、日本GPと8耐を除く全レースに有効なフリーパスを兼ねていた
1963年第1回日本GPに参加されたおふたかたと
※写真中央の津々見友彦さんはDKV900で、写真右の西園寺公作さんはルノー4CVでC3クラスに参加された。津々見さんはジャーナリストの先輩でもあり、ボクがアメリカに住むことになったきっかけを作ってくれたひとり。初めてお話させていただいた西園寺さんは、なんと第1回日本GPの前にも公道を使ったレースに参加されていた。驚き。
見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の1
見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の2
見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の3
見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の4
2日間の鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデーに集まった観衆は6万2千人余り。これからも鈴鹿サーキットは多くの人々を魅了するだろうし、またより多くの人にモータースポーツの魅力に触れてほしいと思った一日だった。